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橋場一男さん(エディター)が見た「ポスト・フォッシル」展
川上典李子のインサイト・コラム vol.5
会期が今週末までとなった「ポスト・フォッシル:未来のデザイン発掘」展(以降、「ポスト・フォッシル」展。今回は、デザインに詳しいエディターの橋場一男さんに、本展の感想をうかがいます。
──本展で感じたことを自由にお聞かせください。
橋場一男(以下、橋場):
展覧会を見てまず思ったのは、「言葉」、でした。無限の音色を使える音楽家や、あらゆる色、形、質感を駆使できる造形作家と違い、「言葉」で表現がなされる文学は、不自由さゆえに独自の発展を遂げてきました。「言葉」は使われるうちに手垢にまみれ、歓迎せざるイメージが付着し、記号化し、それ自体の「美しさ」や名づけの「神々しさ」はずいぶん昔に失われています。それでも美しい詩が詠まれ、すばらしい文学が生まれている。
文学にもモダニズム文学があり、アバンギャルドな文学もあります。いずれも、意識する、しないに関わらず、言葉同士の組み合わせによる反応を通して、「言葉」が生まれた瞬間の神々しさや禍々しさをいかに取り戻すかに挑んでいるのだと思います。
たとえばダダやロシア・フォルマリズムや未来派など、言葉の表現と視覚表現はかつて同時代を生きていたのに、気がつくと「言葉」は表現のムーブメントそのものではなく、ムーブメントの批評や解説にしか使われないようになっています。表現者が大量の言葉を選び、組み合わせ、駆使することに面倒になってしまったのか、現代的な表現では言葉を使うということ自体が難しくなってしまったのか。理由はよくわかりません。
デザインも本来自由なものだったはずなのに、いつしか「言葉」という既製の素材に縛られる文学のような表現になってしまったのでしょうか。既成の「言葉」の順列組み合わせの中で、現代デザインは成り立っていると言えるのかもしれません。デザインは、「言葉の表現」が歩んできた歴史を追体験しているように見えるのです。
もちろん、言葉を使わざるをえない不自由な枠の中ですばらしいデザインを世に送り出しているデザイナーもいらっしゃいますし、手垢のついた言葉を逆に利用するデザイン提案もあるでしょう。今日のデザインの枠組の中で美しい「詩」を書いているデザイナーも多くいらっしゃいます。後世に残るデザインとなるものです。......こうした現状のなか、この「ポスト・フォッシル」展は、私に、言語学者ヴィクトル・シクロフスキーの「言葉の復活」を思い起こさせました。
──ロシア・フォルマリズムの代表的な人物、シクロフスキーと、現代の若手デザイナー......その関係をさらに詳しくお聞かせいただけますか。
橋場:彼は記しています。「人類最古の詩的創造は、言葉の創造であった。新しく生を享けた言葉は生気にあふれ、イメージ豊かであったにもかかわらず、今では言葉は滅び、言語はさながら墓場と化している......」。ロシア・フォルマリズムのこの言語学者は、そこで言語を解体し、ザーウミという、新しくまっさらな「超意味言語」をつくり出す航海に旅立ちます。
少々褒めすぎかもしれませんが、「ポスト・フォッシル」展の作家たちは、「言葉」という既製の理念と質量で構築される「現代のデザイン」の不自由さから逃れるために、ザーウミのような原初的な響きや形、「超意味、超言葉」を、求めているようにも思えました。ロシア・アヴァンギャルドでもプリミティヴィズム(原始主義)がとなえられていた時期があり、ザーウミも少なからずその影響をうけていると思われます。......さらに私が興味を持ったのは、本展が人々の心にどう深く残っていくか、ということ。ここからデザインの生成変形文法みたいな研究も始まるかもしれません。
──展覧会のなかで、印象に残った作品はどれですか。
橋場:これまでの話に照らしあわせて言えば、まさに超意味、超言語をたたえた力強い作品を見ることができました。『鳥類相』、『ドメイン』、『フラグメンツ・オブ・ネイチャー』、『土が描く風景』、『テーブル・コンパニオン』、『ロック・フュージョン』......清々しさを感じた作品もあります。そして、小さな展示空間の木の匂い。あの空気感は、あれだけで何かを伝えていました。
──本展に多く含まれているような現代の若手デザイナーの活動、あるいは彼らをとりまく現状を橋場さんはどう見ていらっしゃるのでしょうか。
橋場:このコラムのvol.1でも触れられていたように、欧州連合の誕生にともなう共通通貨の誕生で様々な文化背景を持つ人々の交流が促されたことは、21世紀のデザインに大きな影響を与えたと思います。一方、欧州連合の誕生後、自国文化の教育予算を大幅に増やした国もあるように、異文化理解促進の反作用として故国の文化の地層を掘り起こす機運も高まっている。自国の文化としての手工業への関心が高まっている状況や、他国の手工芸文化を学びやすい状況になってもいます。
さらに注目すべきは、欧州統合と機を同じくして発展したインターネットです。受発注や宣伝の道具、新たな販路として、結果的にデザイナーのセルフプロデュースのハードルを下げました。ある意味でデザインが生産から自由になったのです。本展の作品群もこうした近年の西欧の状況と無関係ではないと思います。キーワードは、自由、でしょうか。
ですが自由だからといって、一発芸的な表現や、ただ無邪気なだけではいけない。圧倒されるほどの作品は一体どうやって生まれるのだろうかと、いつも考えてしまいます。芸術家で建築家、デザイナーのウーゴ・ラ・ピエトラが、かつて「ドッピア・アニマ」について語ってくれたことがありました。彼は、イタリア芸術職人の手に宿るイタリアのものづくりの歴史や精神でデザインを解放しようと試み、デザイナーと職人の二つのアニマ(魂、心、生命)を持ち備えた作品群を目指し、活動を行いました。現代の若手デザイナーの活動も、そうした上質な内容として発展していくことを期待せずにはいられません。
「答」は往々にして入り口にあるものです。「ポスト・フォッシル」展を目にしながら、同時に、「入り口」に遡ってみたいという想いが強くなってきました。また、日本にとってのポスト・フォッシルとは何かを考えてみたいところです。
まとめ:川上典李子
橋場一男(はしば かずお、1961年 - )
雑誌『LIVING DESIGN』創刊に関わり、2003年まで同誌チーフ・エディター。2005年『Luca』編集長。2005年、ドイツ、シュツットガルトのアカデミア・シュロス・ソリチュードのデザイン部門フェロー。2006年に帰国、現在はフリーランスのエディター、ライターとして活動中。