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2018年4月 (5)

イタリアの建築デザイン誌『domus』が、21_21 DESIGN SIGHTディレクターの一人、三宅一生の仕事を特集しました。
『domus』のゲスト編集長に就任したイタリア出身の建築家・デザイナー、ミケーレ・デ・ルッキは、かねてよりデザイナー 三宅一生の仕事に大きな関心を寄せ、この春、インタビューのために来日しました。

インタビューでは、デ・ルッキが同じクリエイターという立場から三宅のデザイン思想について質問を投げかけました。また誌面では、販売を目的とせずスタディーとリサーチのためにつくられた未発表プロジェクト「Session One」を通して、三宅のものづくりに対する姿勢や手法が紹介されました。さらに、「Session One」から生まれた服が、写真家 ジェームス・モリソンによって撮影された作品も公開されています。

>> domusウェブサイト

『domus』April Issue "Silence"(88-100ページ)

インタビュー・テキスト:ミッケーレ・デ・ルッキ(Michele De Lucchi)
写真:ジェームス・モリソン(James Mollison)

現在開催中の企画展「写真都市展−ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」。展覧会の全体像を紐解く展覧会ディレクターのインタビュー第4弾。伊藤俊治が「写真都市」という言葉に込めた意味が徐々に浮かび上がってくる。(文・聞き手:中島良平)

ウィリアム・クライン「Le Petit Magot, November 11th Paris 1968」

「クラインさんは色々なバリエーションの写真を撮ってきましたが、基本はスナップなので、純粋にスナップショットで表現をする写真家を選ぼうと考えて水島貴大さんを選びました」と伊藤は語る。

水島貴大「Long hug town」

壁一面に展示された134点のスナップ。そのキーワードは「夜のストリート」だ。

「クラインさんがこれまでに撮影してきたような都市のスナップショットというのは、写真家が皮膚感覚で吸い取っていくようにして、人間の意識がすくい取りきれないような都市の情報をイメージに収める方法のひとつだと思うんですね。水島さんは1988年生まれとまだ若い作家ですが、そういった意味での都市のスナップの撮り方も、見せ方もすごくおもしろい。

夜のストリートといっても新宿や渋谷ではなく、自分が生まれて愛着のある蒲田や西馬込の夜の路上を歩き、全身をセンサーにしながら情報をすくい取っていて、膨大な情報量を孕んだ多数の写真を整然と並べることなく、額装せずに壁一面を覆っています。あの壁面は、会場で一番高さがありますから、なるべく上まで写真で埋め尽くして、写真に見下ろされているような感覚を鑑賞者が味わえる空間をスナップで実現したいと考えました。ざわめき、うごめく都市の生命のようなもので埋め尽くすイメージです」

馴染みのある街を歩き、身近な話題などの共通点から縮まる撮影者と被写体との距離というのもあるだろう。だからといって、悪ノリを促してエキセントリックな写真を撮る感覚には流されない。水島が都市に対峙する時の、ある種の頑固さのようなものが壁一面から伝わってくる。

須藤絢乃「面影 Autoscopy」(上)、「幻影 Gespenster」(下)

別の壁面にもずらっとポートレイトが並んでいるが、水島の作風とはまるで異なる。セルフポートレイトを媒介に、自身と他者、アイデンティティとその境界を意識させる作品を手がける須藤絢乃の作品だ。

「写真都市というテーマを考えた時に、都市の風景を入れるだけではなく、今の日本にいる感性、都市の感受性とでも呼べるようなものから表現を行う作家を入れたいと考えました。須藤さんが作る写真は、見た目はすごく柔らかく、かわいくて美しい写真です。しかし制作の根本のところには、我々が住んでいる都市のフラジャイルな要素がある。いつ自分が消えて行方不明になってしまうのか、死んでしまうのか、他者となってしまうのか、といったセンシビリティが基本にあると思うんです」

世界の様々な都市で撮影した多国籍な人間の顔を自らの顔に重ね合わせ、デジタルで合成したセルフポートレイト「面影 Autoscopy」。実在する行方不明の少女の姿を自ら再現した「幻影 Gespenster」。自分の体をフレームにして新たな人格を再構成する試みが、明るく淡い色調の画面に視覚化される。

「彼女の作品の中には、都市に住む女性の繊細な感性を強く感じます。都市を画一的な見方で捉えたような構成にしたくないと前提として考えていたので、そういった意味でも、彼女の写真はこの展覧会において特異なポイントになっているかもしれません」

20世紀初めのパリの変遷を写真に収めたウジェーヌ・アジェや、両大戦間のニューヨークを撮影し続けたベレニス・アボットなどの写真家たちと都市の関係を伊藤はかつて論じたが、21世紀の作家たちの表現を見ていると、「写真都市」という言葉からはまたさらなる広がりを感じることができる。

「写真に撮られた都市、写真で作られた都市、写真がイマジネーションした都市。そうした様々な意味合いを『写真都市』という言葉は含んでいます。私はこの言葉を一義的に定義づけたいと考えているわけではありません。この言葉が喚起するイメージなど、その可能性を見てみたいと思っているのです」

藤原聡志「Scanning #1」

作品展示は屋内のみに留まらない。地上から吹き抜けとなる三角形の中庭空間に、ベルリンを拠点に制作を続ける藤原聡志のインスタレーションが異質な存在感を放つ。

「ターポリンという屋外で使用するビニールシートを用いて、藤原さんは色々なフォトオブジェを作っています。ベルリンのオペラ座やドイツ銀行の作品などを何点か見て、新しい写真の機能のようなものを感じました。写真をオブジェ化することで得られる役割といってもいいかもしれない。スーパーリアリズムのようにしてディテールを抽出し、そこに若干の加工を行うことで現物とは少しだけずらす。そうすることによって、僕らが普段はあまり感知できていない都市の鋭利な暴力性のような何かを想起させてくれる。彼はとても現代的で、とてもアクチュアルな写真の実践を行っていると感じます」

現実の場面を記録した写真がある形状を持ち、空間と関係性を持つことで画面のイメージが予期せぬインパクトを放つ。藤原聡志の手法は、写真というメディアが持つ表現性の現代的な広がりを強く感じさせてくれる。

Vol. 5 に続く

2018年4月18日、ギャラリー3にて開幕となった「Khadi インドの明日をつむぐ - Homage to Martand Singh -」展に関連して、「展覧会チームによるギャラリートーク」を行いました。トークには、本展にまつわるテキストを担当した森岡督行と、インドの現地で映像を撮りおろし制作した岡本憲昭、企画構成を務めた前村達也(21_21 DESIGN SIGHT)が登壇しました。

登壇者の3人は本展のためにインドへ渡航し、マルタン・シンの活動を支えてきた人々やカディにまつわる様々な風景を取材してきました。トークでは、取材中のスナップ写真を紹介しながらその様子を語り、それぞれ印象に残ったエピソードを語りました。

晴天となった当日、トークの前半はギャラリー3の外で行われました。展覧会を訪れた人々が少しずつ加わり、トーク会場は徐々に賑わいを増していきました。後半には、ギャラリー3の中で実際の展示に触れながら、展覧会の解説が行われました。

2018年4月18日、21_21 DESIGN SIGHTギャラリー3にて「Khadi インドの明日をつむぐ - Homage to Martand Singh -」展が開幕となります。

簡素で美しい生活様式やテキスタイルをはじめ、今日でも手仕事による技法や歴史、文化が色濃く継承されているインド。なかでも「カディ(Khadi)」と呼ばれる綿布は、ものづくりのオートメーション化が著しい近年も、手紡ぎ、手織りによってインド各地でつくられています。

インド・テキスタイルなどの幅広い文化復興活動で知られるマルタン・シン(Martand Singh、1947-2017)は、インドの独立、雇用、死生、創造という観点からカディを「自由の布」と呼んでました。

本展では、つくり手そのままの表情を見せるカディとその思想を、マルタン・シンの活動の根幹を担ってきた人々を現地で取材した映像とともに紹介します。インドのものづくりに宿る精神と息吹をご体感ください。

写真:吉村昌也/Photo: Masaya Yoshimura

現在開催中の企画展「写真都市展 −ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち−」。展覧会の全体像を紐解く展覧会ディレクターのインタビュー第3弾。(文・聞き手:中島良平)

ギャラリー2全景

ウィリアム・クラインの表現と「次の世紀を担うようなアジアのエネルギッシュな才能」とを対比させること。21_21 DESIGN SIGHTで最も広い面積を持つギャラリー2の空間に足を踏み入れると、そこから視界が一気に開ける。最初の壁面には、安田佐智種の作品が2点並ぶ。

安田佐智種「Aerial」「みち(未知の地)」

都市を高所から見下ろし、白く抜かれた四角いVoidからビルが放射状に天空へと広がる様子を視覚化した「Aerial」のシリーズから選ばれたのは、ニューヨークの9.11の現場をモチーフとする作品。そして、故郷である日本が2011年に津波と地震という大震災に見舞われた後、喪失感と望郷の念に駆られて福島で撮影した「みち(未知の地)」が合わせて展示されている。

「20世紀の都市の典型であるニューヨークが、世紀が変わってすぐに壮大な悲劇に見舞われた。安田さんの作品は、そのことを象徴するような写真だと感じています。そして、この作品では都市の垂直的なイメージが手がけられている一方、『みち(未知の地)』では、今度はカタストロフィの現場の水平な移動をとらえています。ニューヨークに住む彼女は、3.11の時に日本がどうなっていくのか地崩れ的な恐怖を感じたそうで、自分の生まれた国が向かう先を体で確かめたいという切実な欲求から撮影に向かったと聞いています。その身体の移動が、垂直的な都市のイメージと対をなしている。つまり、いずれの作品にも、彼女自身の身体感覚でとらえられた都市のイメージが表現されています」

西野壮平「Diorama Map」(上)、「Diorama Map "Tokyo 2014"」(下)

その身体性は、西野壮平の作品にもシンクロする。様々な都市を歩き、何万枚もの写真を撮ってコラージュすることで世界の都市という構造体を個人の視点から見直した作品だ。

「歩く、走る、移動する、といった生命が抱える根本的な欲望や衝動を、写真行為のなかで確認するような意図が西野さんの表現にはあるように感じられます。各地の都市は複雑化していて、その規模感も密度も身体で把握することが難しくなっているという状況も、その背後にあるのではないでしょうか。彼が何日もかけて都市を歩き回って獲得したイメージは、身体の移動した痕跡であるし、そこには様々な記憶が集積されて新しい都市のヴィジョンが完成しています」

生身の身体の感覚は20世紀末から現在にかけて薄れていて、消滅していくような恐れすらある。ウェブの世界はその象徴であるが、人工知能をはじめとするテクノロジーの発達なども同様である。アーティストたちは表現を通じて、そうした危機への警鐘を鳴らしているのだともいえる。「世界中を歩き回っている石川直樹さんの作品も同様ですよ」と、伊藤は続ける。

石川直樹+森永泰弘「極地都市」(上)、石川直樹「Illuissat, Greenland / 2007」(下)

「彼は七大陸の最高峰を最年少で制覇していますが、南極や北極の極地を撮ったシリーズも初期の作品にたくさんあるんですね。そうした人間が生活できないと思われていたような極地でも、様々なコミュニティや都市の雛形みたいなものができあがっていることを彼の写真は伝えてくれます。通常我々が考えるような、ロンドンやパリや東京のような"都市"と対比することで、都市の概念を広げることができるのではないか。そんな意図も込めて石川さんに参加してもらいました」

「極地都市」と題されたこの作品では、音も重要な役割を担っている。世界各地を旅し、少数民族の音楽や儀礼などの記録を中心に創作活動を行うサウンドデザイナーの森永泰弘が、石川とコラボレートしてインスタレーションを完成させているのだ。

「ある場所に立った時にしか音が聞こえないような指向性の非常に高いスピーカーを用いているので、展示空間を移動しながら、音と写真の臨場感が同調する特別な体験が生まれます。写真は従来、無音の、沈黙のメディアだと思われてきましたが、そこに音が組み合わさることで、イメージの見え方が変わってくるはずです。そうしたメディアの融合による新しい写真表現を見せたいという思いもありました」

Vol. 4に続く