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2011年5月 (1)
5月28日、30年以上イタリアデザイン界に身をおき、倉俣史朗、エットレ・ソットサスをはじめとしたデザイナーや建築家とも交流を持つデザイン・ジャーナリストの佐藤和子を迎え、レクチャーが行われました。
本展ディレクターの関より本展概要と佐藤の紹介ののち、レクチャーはスタート。今回の展覧会は、倉俣とソットサスの交流が深まった1980年代以降を始点としていることから、1980年以前のイタリアデザイン史をメインに進んでいきます。
1960年代に推し進められていた社会工業化。1970年前後にはそんな社会にひずみがうまれ、建築家やデザイナーが社会に物申す姿勢が表面化したと佐藤は話します。フィレンツェにスーパースタジオやアルキズムの若いアヴァンギャルド建築家集団が登場した時代を「デザイン空白時代」と呼びました。当時の運動のマエストロ的存在であった建築誌「カサベラ」を中心に、イタリア中の若手建築家たちが論議を行っていたそうです。
その後、失業者が増え、社会的に暗い時代が続くと、建築家たちの間からも「(マイナスな)状況を乗り越えよう!」という前向きな活動が起こりました。 1979年、アヴァンギャルド・デザインの「スタジオ・アルキミア」に、ラディカル建築家たちが集まり、「バウ・ハウス・コレクション」を発表。その後、ソットサスは、スタジオ・アルキミアから離れて、国際的な若いデザイナー集団の、脱デザイン「メンフィス」展を1981年に発表。ポストモダン時代が始まります。メンフィスの主な素材は、人工的図柄を描いたプラスティック・ラミネート板だったので、この素材は建築のインテリア素材として広がり、大衆素材として国際的に普及しました。佐藤はメンフィスを「家具でない家具」「建築:デザイン・アートの境界を越えた家具」という、今までの既成概念を超えた文化運動だったと語りました。
イタリアデザインの歴史をなぞったあと、レクチャーはソットサスと倉俣の個人のデザインに焦点が絞られました。佐藤はソットサスには「メンフィス」の派手なイメージが強いが、企業の堅実なデザインも数多く手がけ、長年続けていた仕事だったことにも言及。本展の会期延長に伴って追加展示された、オリベッティ社のタイプライター「バレンタイン」や、現在も売れているアレッシィ社の食卓シリーズもそれらの一部。「事務機の機能性は損なわないままソフトでオシャレにしたり、生活必需品のデザインをアノニマスなものにしたり、ソットサスは時代を先取りしていた素晴らしいプロダクトデザイナーだった」といいます。
本展では、倉俣の作品は1980年以降にしぼって展示していますが、それ以前のデザインも同様に魅了的だったと佐藤。建築デザイン誌「domus」に、 1984年彼の略歴を一切省いて掲載した倉俣インタビューの経緯を映像で示しながら、佐藤は、当時、倉俣に対する海外の関心がいかに高かったかを語ります。倉俣が初期に多く手がけていた引出しモチーフのエピソードや、未来のデザインについて、実際のインタビュー内容もいくつか紹介しました。また、倉俣の詩のように美しくてユニークな言葉を、イタリア語に翻訳して記事にすることは、とても難しかったという裏話も披露しました。
佐藤はソットサスと倉俣はモダンデザインやポストモダン・デザインをも超えた、時代の先を見ていたデザイナーだったといいます。「真実と虚構の間を行ったり来たりしていたように見えた二人のデザインには、見ている者にとって意図が掴み切れないミステリーがあった」そう。ソットサスが「楽しい人間の在り方を探す」行為だと表現したデザインは、まさにものづくりの「営みの原点のような行為だった」と締めくくりました。
トークの最後には質疑応答が行われました。関からのイタリアと日本のポストモダンの違いや、イタリアの文化活動が日本にどれくらい影響があったのか、など歴史に関する質問から、倉俣デザインがヨーロッパで人気の理由や、ソットサスの人材育成にも話題が及び、時折笑いも起こるような穏やかで充実した時間となりました。