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森山明子 特別寄稿
記憶の中の「天空散華」
残らないアート・プロジェクトをどう残すか
―― 森山明子(デザインジャーナリスト、武蔵野美術大学教授)
「そこまでやるか 壮大なプロジェクト展」に関連するトークをやることになった。開催中の展覧会は8つの作例からなるが、その一つにクリスト(1935-)とジャンヌ=クロード(1935 - 2009)のプロジェクトがあり、二人のスタッフとして数々の企画に伴走してきた柳正彦氏の相手としてである。
今回の展示にある「湖面を渡る100,000m2の布」は、イタリア・イセオ湖で昨年実現したフローティング・ピアーズ、つまり湖に浮かんで人が歩くことのできる布製の長大な桟橋。『クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』(図書新聞社、2009)の著者とトークをすることになったのは、いけ花作家中川幸夫(1918 - 2012)が理由である。
中川には100万枚のチューリップの花びらをヘリコプターから信濃川河川敷に降らせる「天空散華 中川幸夫"花狂"」があり、私は中川の作品集を編集し、評伝『まっしぐらの花―中川幸夫』(美術出版社、2005)を書いたからだ。
歴史に刻まれる「密室の花」
壮大かつ期間限定だったり素材が植物だったりして、現物を残すことができないアート・プロジェクトをどう後世に伝えるか。そのために、作家の傍らにいる人間に何ができるか。トークでは、プロジェクトの実際を話し合うことで、この課題を解く糸口を聴衆とともに考えたい。
クリストとジャンヌ=クロードの活動は世界的に知られているから、ここでは知る人ぞ知る中川幸夫について述べてみる。
香川県丸亀に生まれた中川がいけ花を始めたのは戦時下、印刷工を経た二十代半ばだった。作庭家の重森三玲が京都で主宰したいけ花研究集団「白東社」に参加することで頭角を現わし、所属する池坊を脱会して東京に転居したのは38歳。以来、前衛いけ花運動が退潮しても、花を教授しないただ一人の前衛として制作を続けた。
集大成である『華 中川幸夫作品集』(求龍堂、1977)収録の作品群は、基本的には他者に見せることを意図しない「密室の花」。理解者である詩人瀧口修造らに衝撃を与えたのが腐らせたカーネーションの花びらが赤い花液を流す「花坊主」といった一連の作品だった。いけ花500年余の歴史にない花である。舞踏家大野一雄の舞台の花を制作するなど観衆を前提とする作品づくりが加わるのは、90年代に入ってからのことなのだ。
消えゆくものを残す作家の日々
いけ花作品は写真でしか残せない。それも望んだ一瞬を撮るために、写真家の土門拳に勧められたこともあって中川は自分で撮影し、残されたポジフィルムは数千枚に及ぶ。掲載記事や手紙類はまめに保管。愛用し続けた「能率手帳」は制作ノートであり、読書日誌であり、備忘録でもあって、創作の秘密を解く上でまたとない貴重な資料となった。
柳氏によれば、クリストらがプロジェクごとに重要度に応じて梱包したドキュメントは夥しいという。規模は比ぶるべくもないにせよ、残せない作品を残す中川の努力に変わりはなかったのである。
作品制作の原資をクリストらはプロジェクトのドローイングに求め、中川は書とガラス作品とした。共通性は他にもある。クリストには同年同日生まれのジャンヌ=クロードが、中川には11歳年上のいけ花作家・半田唄子がいて、忍耐を強いられる時間を共有できたことだ。
「天空散華」は奇跡の花
ニューヨーク市に注ぎこむハドソン川を望みながら実現せず、新潟県十日町で越後妻有アートトリエンナーレ大地の芸術祭の一環として達成できた2002年の「天空散華」は、クリストとジャンヌ=クロードによるニューヨーク市セントラルパークに7503基の布製の門が立ち並ぶ「ゲーツ」に設置許可が下りる前年だった。建造物などの「梱包」から自然界へと場を転じたクリストらに対し、中川は「密室」から出て天空へ。
20万本ほどのチューリップは、栽培適地である地元十日町の人々が解体した。荒天のために雨滴をまとって螺旋状にとめどなく降ってくる花びら。最初は赤、次いで白、そして黄のまじる色とりどりの、ゆうに100万枚をこえる花弁―。「皇帝円舞曲」が流れる中、96歳の大野一雄が白い椅子で踊り84歳の中川が寄り添う。15分ほどの現場に立会った人しか得られない感動があった。
アーカイブの限界ではあるのだが、それでもこころ震える感動を人々に伝えたい。だが、一体どのようにして?
トーク「プロジェクトをアーカイブする」
日時:2017年7月22日(土)11:00-12:30
出演:柳 正彦、森山明子
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