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ドミニク・チェン特別寄稿「わかりあえなさをつなぐこと」前編
2020年10月16日よりはじまる企画展「トランスレーションズ展 −『わかりあえなさ』をわかりあおう」。
この特別寄稿では、本展オープンに先駆け、展覧会ディレクター ドミニク・チェンが自身の半生と翻訳について語ります。前編では、いくつもの言語が飛び交う環境を出自にもつチェンが培ってきた「翻訳」や、自身の「翻訳欲」の遍歴をたどります。
わたしの家では、幼い頃から「翻訳」が日常生活を満たしていました。アジア、ヨーロッパ、アメリカに散り散りになった父方の家族と会う時、そこでは英語、フランス語、台湾語、ベトナム語、そして日本語が飛び交っていたのです。わたし自身は東京生まれの東京育ちですが、幼稚園からフランス人学校に通い、授業中はフランス語、放課後は日本語を話して過ごしました。
このような家庭環境で育ったせいか、言語とは唯一無二のものではなく、時と場合によって複数を使い分けるものという認識が自然に生まれました。そして同時に、ある言語で表せられる感情は、必ずしも他の言語に翻訳できないというもどかしさも味わったのです。中学からはパリに移り住み、大学はカリフォルニアで過ごして、その後は日本に戻ってきましたが、どこで生活していても自分が帰属すべき「母語」がひとつに確定しない、という感覚と共に生きてきました。
言語と言語のあいだには、翻訳が不可能となる際(きわ)と、不思議と意味が通じあうあわいの、二つの領域が存在します。大人になるまでには、越えることのできない言語の境界に翻弄されてきましたが、表現活動を行うようになってからは「いい加減」に意味が通じることを徐々に楽しめるようになってきました。
もうひとつ、わたしの翻訳観に大きな影響を与えたのが、子どもの頃から抱えている吃音の症状でした。話したい言葉は頭のなかでプカプカ浮かんでいるのに、どうしても声にならない。そこで仕方なく採られた戦略が、別の言葉に言い換えることでした。同じ言語内の、もっと発音しやすい類語や縁語を瞬時に検索する癖がついたわけですが、何気ない言葉を吐くという日常の些細なコミュニケーションのひとつひとつが翻訳行為だと言えます。
だからわたしは、人の話を聞いたり、本を読んだりすることが大好きになりました。誰が何語で話していようと、内容そのものへの興味に加えて、当人が「何を翻訳しようとしているのか」というプロセスにも関心を持つようになったのです。
ある人が任意の言語で話している時、その人は自分の体験を通じて感じたことを、相手の知っている言葉に「翻訳」して話している。同時に、その翻訳行為から常にこぼれ落ちる意味や情緒もある。その隙間をなんとか埋めようとする仕草に、翻訳する人固有の面白さが表出する。すると、たとえ吃音に悩まされていなかったとしても、誰しもが表現のもどかしさを生きているのだと実感するようになり、人と話すことがとても楽になったのです。
誰かに何かを話したい、伝えたいと強く思う時、わたしは自分の感覚を翻訳しようとしています。それには世間話のような、他愛のない会話も含まれるが、非常に強い「翻訳欲」に駆られる時もあります。わたしは、誰に頼まれるわけでもなく、一人で勝手に、徹夜をしてでも、あるテキストを別の言語に翻訳したくなるのです。たとえば、フランスの哲学者のインタビュー映像や、パリの爆破テロの際に妻を喪(うしな)った男性のFacebookの投稿、子どもの頃から聴いてきたフランス語のラップの歌詞、シュールレアリズムの詩人ゲラシム・ルカの朗読など、さまざまな表現を衝動的に日本語に訳してきました。その一部は公開し、一部は誰にも見せずに手元に取ってあります。そういう時に私を突き動かしている動機の正体は、それ自体が目的の「翻訳欲」としか呼びようのないものなのです。
今年、新潮社から刊行された著書『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』は、わたしの翻訳欲の遍歴をまとめた本です。わたしはこれまで、自然言語間の翻訳から始まり、非言語的な芸術やデザインの表現を経由し、情報技術のプログラミング言語を学んできました。すべて、まだ表現されていない感情を象(かたど)るための新たな「言葉」を生み出す活動です。その途上で、子どもが生まれたことによって、自分がいなくなった後の世界を想像するための「言葉」を探す過程を記述しました。本書のメインタイトル「未来をつくる言葉」は、この探索のプロセスを指しています。そして副題では、本来的に翻訳不可能な「わかりあえなさ」、つまり各々に生起する固有の意味や感情を、たとえ分断があるとしてもわかちあうためのコミュニケーションの在り方を喚起しようとしたのです。
湧き上がる気持ちをデジタルで表現するには?
この「翻訳」で多様な人が共に在る場をつくる
−気鋭の情報学者が新たな可能性を語る。
ドミニク・チェンの思考と実践、そのうねりが一冊に。
発行|新潮社・1,800円+税・208頁(電子書籍版も発売中)
装丁|GRAPH=北川一成と吉本雅俊
編集|足立真穂(新潮社)
初出:yom yom(新潮社)vol.60 2020年2月号「翻訳人生――『未来をつくる言葉』」
このテキストは上記初出記事を基にして21_21 DESIGN SIGHT用に改訂したものです。